2011年8月13日土曜日

防災格言186

橘 南谿(1753~1805 / 江戸時代の医師 朝廷医官 『東西遊記』の著者)伊勢(三重県久居市)出身の橘 南谿(たちばな なんけい / 本名:宮川春暉(はるあきら)字は恵風 号は梅仙)は江戸時代中後期に活躍した医師。19歳で医学を志し上京。臨床医としての見聞を広める医学修業のため諸国を歴遊し、後に紀行文『東西遊記』を刊行した。

この格言は、寛政7(1795)年の著書『西遊記』(参考:上田万年抄本「東西遊記(大正14(1925)年)」)より。南谿が、熊野古道の海辺にある長島(三重県紀伊長島)へ行った際、禅寺「佛光寺」に立ち寄り「津浪流死塔」と題す碑文を見つけた。宝永4(1707)年の宝永地震(M8.4 東海・南海・東南海地震が同時発生し死者2万人以上)で建てられた碑文であった。

自ら近隣を巡り津波のことを尋ね歩き、付近の地理を考えて、津波について自論を述べたもの。曰く『 長島の町家近在皆々潮溢れ、流死の者おびただし。以後大地震の時は、其の心得して山上へもにげ登るべきやうとの文なり。いと實體(実体)にて殊勝のものなり。誠に此の碑の如きは、後世を救ふべき仁慈有益の碑といふべし。諸国にて碑をも多くみつれども、長島の碑の如きは、めづらしくいと殊勝に覚えき。 』と所感を述べている。

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